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?@黎明期とスペイン統治期
フィリピンの統治体系が具体化したのはスペイン統治期からであり、それ以前はバランガイ体制を基本とするものであった。スペインは、フィリピン諸島を市長、軍人、司祭からなる派遣団の階層組織による鎖を結び、本国政府の意向に沿った高度に中央集権化された統治原理によっていた。
官僚の組織は、司祭、軍人、マドリッドで就任した官吏からなり、大半のスペイン人はマニラに駐在した。公務の規模は極めて小規模であり、自らの富を蓄積するため公職の買収が横行した。実際上、フィリピン人の採用は極めて少数に限られた時代が続いた。
?A米国統治期
19世紀後半の共和国時代に入り、フィリピンは米国を中心とした先進国の慣習などを導入した。ここに人事行政は新しい時代を迎えた。
ア 公務員法の制定−公務員会議(Civil Service Board)の創設
1899年、米国のW・マッキンレー大統領は、フィリピン人の雇用基準の策定を目的として、第1次フィリピン行政委員会(Philippine Commission)(シューマン委員会)を設置した。委員会は同年、「フィリピン人を雇用できる誠実かつ効率的な公務員制度」を提唱し、翌年、メリット・システムに基づく官僚組織を創設するための最初の公務員法とされる「フィリピンにおける誠実かつ効率的な公務員制度を確立する法律」が成立した。さらに、同年、フィリピン政府の政治的任命者に米国人を雇用しない政策を樹立するため、第2次フィリピン行政委員会(タフト委員会)が設置された。委員会は、公務員法の可決により、公務員会議を創設し、国内すべての行政部門を対象とする公務員試験の実施などを提唱した。これにより、現在の原形ともいえる公務員制度の基本的な枠組みが形成された。
第1回の公務員試験は1901年3月に予定されたが、多くの応募者があったため4月に変更されて数日間にわたって行われた。公務員会議は翌年、空席官職を補充するための合格証明の準備ができた旨を軍政長官及びフィリピン行政委員会に通知した。ここに合格証明による任用手続きが開始された。
イ 公務員局(Bureau of Civil Service)の設置
第2次フィリピン行政委員会は1905年、公務員会議を局に再編した。同局には、同委員会の同意を得て、総督によって任命される局長1名及び局次長2名が置かれた。
ところで、米国から導入された他の制度と同様に、公務員制度についても、フィリピン人から強い反対が見られた。例えば、慣習や伝統への影響、米国人の高

 

 

 

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